2012/08
黒船を率いて開国を迫ったペリー君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人20]


ペリー上陸記念碑

 久里浜海岸のペリー公園には「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」がある。横須賀市や横浜市には開港にまつわる史跡が沢山ある。
 浦賀の郷土資料館にはペリー艦隊の模型があり、黒船が和船に比べて如何に大きかったかに驚かされる。対応した浦賀奉行所与力中島三郎助関係の資料や建造した鳳凰丸の模型もある。天狗面のようなペリーの似顔絵はおもしろい。
 横浜の開港資料館は日米和親条約調印の地で、開港からの歴史資料を展示しており「近代横浜の記憶装置」を自任している。
 ご承知の通りペリーはアメリカの海軍軍人であって、科学者・技術者の範疇に入る人物ではない。しかし、我が国近代化に貢献した外国人としては第一級の人であり、このシリーズの最後に登場願うことにした。
 ペリーの功績については歴史家の判断に委ねるとして、ここでは「ペリー艦隊日本遠征記」に従って、ペリーの行動と日本観を観察してみたい。


ペリーの来日
 ペリーは米国海軍郵船長官のとき日本遠征の主な目的を、「わが国の捕鯨船の保護・避難や物資補給のために新しく港を開かせることと、更に太平洋航路開発と燃料確保を図ること」として海軍長官に具申した。1851年秋に東インド艦隊司令長官就任を打診され、翌年1月に受諾した。この時ペリーは58歳で、通常なら陸上勤務となる年齢なので自分が指名されるとは思っていなかったようだ。
 ペリーはアメリカを出港するまでの10カ月間、日本のオランダ商館長ケンペル、ツンペリー、ティチィング、ドゥーフや商館医シーボルトの日本記録を集め、マルコポーロの見聞録にまで遡って日本を研究した。
 200年以上の鎖国の続く日本は政治学者、自然地理学者、博物学者、実業家、人類学者、文学者など、あらゆる分野の人達の興味をそそる国であり、日本を世界の貿易国の一員に招き入れる役割が、最も若い国アメリカ合衆国に残されていたと喜んだ。
 ペリー艦隊司令長官は最初から日本遠征記を残す心づもりで、隊員の中にドイツ人画家ハイネ、銀板写真技師ブラウン、ジャーナリストのテイラー、生物学者モローなどを加えている。
 ペリーは四艘の軍艦を率いて1853年7月8日に来日した。浦賀にやってきて、上陸を許されたのは久里浜であった。米国大統領の親書を手渡し、僅か10日間の滞在で7月17日に離日している。
 翌年、1854年2月13日に再来日し、横浜村で日米和親条約を締結したが、この時の滞在は4月16日までの65日間、この時開港した下田に46日間と箱舘に18日間、滞日期間は129日間である。アメリカを出港して帰着するまで約2年2か月、この間に日本に滞在したのが僅か140日であるが、書かれた「日本遠征記」は膨大である。


ペリーの日本人観察
 ペリーは『日本遠征記』の中で、日本人を次のように観察している。
 ――贈り物を陸揚げする日がやってきた。
 ――この目的に合わせて、条約館に接続して一棟の建物が設けられ、整備されていた。諸士官と作業員たちが贈り物の展示のために毎日精を出して荷を解き、整理をした。
 ――日本の労働者たちは悪天候から荷を護るための小屋を建て、小型機関車の円周軌道を敷設するため平坦な土地を選定し、電線を張るために柱を持ってきて立ててくれるというように、どんな作業にも進んで加わり、機械を整理して、組み立ててゆく成果を子供のように無邪気に喜んで見守った。
 ――電信装置がまもなく稼働するようになった。電線が1マイルほどまっすぐに張り渡され、その一端は条約館に、他の一端はとくにこの目的のために設けられた建物にあった。両端にいる技術者の間で通信が開始されたとき、日本人は強烈な好奇心を持って操作法に注目し、一瞬のうちに伝言が英語、オランダ語、日本語で建物から建物へ伝わるのを見て、びっくり仰天した。毎日毎日、役人や大勢の人々が集まってきて、技手に電信機を動かしてくれるよう熱心に頼み、伝言の発信と受信を飽くことなく注視していた。
 ――機関士が管理する小型蒸気機関車、客車、炭水車をそろえた鉄道も、興味をそそる点ではひけをとらなかった。装置はすべて完備しており、客車はきわめて細工を凝らしたものだったが、小さいので六歳の子供を乗せるのがやっとだった。それでも日本人は、なんとしても乗ってみなければ気がすまず、客車の容量まで身を縮めるのは無理なので、屋根の上にまたがった。
 ――日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるために、合衆国からもたらされた珍しい織物、機械装置、精巧かつ新奇な発明品の数々は恰好な機会を与えた。自分たちには前代未聞の品々を、微にいり細にわたって検査するだけでは物足りず、士官や水兵につきまとい、あらゆる機会をとらえては衣服の各部分を検分した。士官のレース付き帽子、長靴、剣、燕尾服、水兵たちの防水服、ジャケット、ズボンなど、すべて事細かに調査された。
 ――彼らは目で観察するだけでは飽き足らず、ゆったりした長衣の左胸のポケットにいつも携帯している筆記用具、すなわち桑樹皮製の紙と墨と毛筆をたえず取り出して、書きとめ、スケッチした。
 ――日本人はこれほど己の好奇心を満たしたがるくせに、自分のことはけっして打ち明けようとしない。腹立たしいほど控えめな理由として、法律で自国のことやその制度、風俗習慣について外国人に話すことを禁じられているからだと主張する。――r


日本の将来についての予測
 ――実際的および機械的な技術に於いて、日本人は非常に器用であることが分かる。道具が粗末で、機械の知識も不完全であることを考えれば、彼らの完璧な手工技術は驚くべきものである。日本の職人の熟達の技は世界のどこの職人にも劣らず、人々の発明能力をのばせば、最も成功している工業国民にいつまでも遅れをとることはないだろう。人々を他国民との交流から孤立させている政府の排外政策が緩和すれば、他の国民の物質的進歩の成果を学ぼうとする好奇心、それを自らの用途に適用する心構えによって、日本人はまもなく最も恵まれた国々の水準に達するだろう。ひとたび文明世界の過去および現代の知識を習得したならば、日本人は将来の機械技術上の成功をめざす競争において、強力な相手になるだろう。――r
 ペリーは何を見てこれほど、日本人の技術を褒めたのか。大工の木工構造物の接合の正確さ、なめらかな仕上げ、整然とした床張り、窓・障子・引き戸のきちんとした取り付けや滑りの良さ、石工の石積み、桶の製作、金工職人の装飾品や日用品、鋼鉄の鍛錬などを例示している。
 やがて日本はペリーのご託宣の通り、世界第一級の機械技術の国になったのである。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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